『アニメは越境する』を読む

先月末に岩波書店から出版された『アニメは越境する』を読んだ。日本映画は生きているシリーズの第6巻で、国内外のアニメ研究者による計八本の論稿、神山健治×上野俊哉の座談会、佐藤大上橋菜穂子らによる短いエッセイが収録されている。 以下、雑感。

津堅信之「日本の初期アニメーションの諸相と発達」

1930年頃までの初期アニメ史を最新の研究成果も踏まえながら実証的に記述したもの。この時期の日本がいち早く実写/アニメーションの境界に自覚的になり、アニメという表現媒体の独自性に気づいた点を指摘している。特に、前衛的手法としての「人形アニメーション」や学生やアマチュア作家による自主制作に注目しているのが面白い。例えば、大塚英志などは十五年戦争下にアニメーションの表現が確立されたと主張していたと思うが、津堅はそれより前の時点、「1930年代前半までにアニメーションの広い意味での特殊性がほぼ掌握されていた」と指摘する。しかも、その中核を担ったのは国策映画会社やプロの制作者ではなく、自主制作を行っていたアマチュア作家たちであり、彼らの手による「偶然性」の産物がアニメーションの特殊性を先取りしていたのではないかと言う。

胡智於「アニメーション、アニメ、ジャパニメーション――近代化とファンタジーの“宝庫”」

前半は日本のハード面での産業化・近代化(特にフィルム産業)と国産アニメーションの発展が結びついていたという指摘。後半の方が面白い。後半は第二次世界大戦期に活躍した中国のアニメーター万兄弟の手紙と彼らが制作した『鉄扇公主』という中国産長編アニメーションの日本での受容に注目することで、戦時下の芸術が「越境」する歴史的背景を論じたもの。もちろんこの背後には大東亜共栄圏的なイデオロギーが見え隠れするのだけど、筆者はこのディズニーに対する「東洋の回答」、そして手紙に書かれた「東洋人」としての意識に、戦時下のアニメーションがもたらした対話の可能性を見ている。 万兄弟は中国版のフライシャー兄弟みたいなものらしく、この『西遊記 鉄扇公主の巻』は手塚治虫にも少なからぬ影響を与えたとか。ちなみに、『鉄扇公主』はココから無料でダウンロード可能。

マーク・スタインバーグ「デジタル・イメージの諸次元――『メトロポリス』と『巌窟王』におけるアニメ化された空間とイメージ――」

直感だと本誌随一の神論稿。最近の日本のアニメはセルアニメ様式と3DCGのハイブリッド、つまりは複数の次元が混在した映像であるという正しい現状認識から表現論へ突入。3DCGがもたらす映画的リアリズム+デカルト的主体性+凝視する視線が、スーパーフラットな二次元映像と齟齬をきたした時の感覚は誰しもが経験済みだと思うが、筆者はこの複数の次元が交錯する地点として二つのアニメを挙げる。 一作目は『メトロポリス』で、本作の映像には2D空間と3D空間の敵対的権力構造があるとのこと。端的に言うと、圧政・権力・管理の象徴でもあるジグラットという高層ビルが3Dの遠近法的イメージで描かれてるのに対して、無秩序なスラム街や抵抗権力がセル方式の2Dで描かれているという対立。

セルアニメは、脱中心化のポリティクス(スラム街)、新しい「人間超越主義」(ロボットと人間の同盟)、「凝視」よりも「一瞥」を特徴とする自由な動きに結び付けられている。他方、3DCGIは、デカルト的空間、古典的な映画の観客のような従属かされた凝視、イメージ空間と主体に対する全体主義的な管理に結び付けられている(63-4)

「第三の隔たり」と呼ばれるこの二次元と三次元の間の区別は単純化されすぎている感は否めないものの、これだけでは終わらないのがミソ。続いて、筆者は『巌窟王』の映像がもたらす視覚経験はこの隔たりを一歩先に進めて、セルアニメそれ自体の中にもう一つの乖離「第四の隔たり」をもたらしていると主張する。その原因はキャラクターへの「テクスチャ」の貼り込み=『巌窟王』のあの奇抜な柄やフィルターの使い方。この「テクスチャ」のレイヤーが、しばしば「キャラクターよりも優位に立ち」、「キャラクターの自己同一性を脅かす」ことによって、映像自体に新しい微視的イメージの水準が生み出されるという。商業主義的なキャラクター観(=フィギュア化に適した身体)ともデータベース的な「萌え」要素とも異なる、テクスチャの層によって構成された輪郭のはっきりしないキャラクターに新しい表現を見るという主張。
個人的にはすごく面白かった。アニメ表現論の未来はこの辺りにあるんじゃないだろうか・・・と感じさせる論稿。「合成」に注目したレフ・マノヴィッチの映画論、「隔たり」(インターバル)に注目したラマールの『アニメ・マシーン』の議論を発展させようという点も期待できる。筆者はカナダのコンコーディア大学准教授らしいが、近刊のアニメ論も出版予定とのことで、かなり要注目の研究者かもしれない。

イアン・コンドリー「細田守、絵コンテ、アニメの魂」

先日、『サマーウォーズ』がテレビ放送されたこともあって、タイムリーな細田守論。アニメ制作現場をフィールドワークした取材レポートのような文章で、アニメ制作の協働的創造性(collaborative creativity)や絵コンテの重要性、『時かけ』の原作からのキャラ改変などを指摘している。 本論は近刊のアニメ論を参照・・・といったところ。「魂」という言い方はあまり良いとは思えないし、絵コンテに注目する視点も特に新しいわけではない。文化人類学的なエスノグラフィーと称するのはいいけれど、単にアニメ制作現場で取材するだけでは物足りないのも確か。ここからどう理論構築できるのかに期待。

泉政文「〈世界〉と〈恋愛〉――新海誠の作品をめぐって」

セカイ系の再検討にはじまり、『ほしのこえ』、『雲のむこう、約束の場所』、『秒速5センチメートル』と新海作品をたどる内容。ただし5割が先行する批評への言及(紹介?)、3割があらすじ紹介、残りの2割が筆者の主張というなかなか微妙なバランスの論稿。で、最終的な結論がこれ。

秒速5センチメートル』で新海は、世界を閉鎖的な二者関係の「風景」から「生活世界」へと拡大し、そこに生きる人々の人生(成長)を描いた。非日常的なものすら日常化していく中、それでも日常の中に溢れる成長の機会としての風景がそこにはある。ここにおいて、新海は、世界をある固定的な主観から意味付けるだけの立場から(セカイ系から)、世界によってわれわれは生かされ、生きているという有意味性の立場へ(生活世界へ)と移ったと言えるだろう。

中盤で加藤幹郎の新海論を多少批判していたのに、結局、現象学的(フッサール的?)な語彙でまとめてしまうのはどうなんだろう。果たして「成長の機会としての風景」なんて新海作品にあっただろうか。まぁ、そう読むのは勝手だけど。

朴己洙「宮崎駿アニメーションのストーリーテリング戦略」

筆者は韓国の漢陽大学教授。宮崎アニメのキャラクター布置を中心キャラ/鏡キャラ/対立キャラ/助力者etcに分類したり、『もののけ姫』のキャラ相関図を作ったり、作中の社会空間をモデル化したりと、構造主義的なナラトロジーを多角的に応用した分析が論の中核を占める。大塚英志の『物語論で読む村上春樹宮崎駿』と一部方法論を共有していて、案の定それほど刺激的というわけではない。終盤では宮崎アニメの特徴として「透明なアクション」や「力動的な動き」が挙げられ、『崖の上のポニョ』が分析されている。 構造厨(物語の構造等がとにかく好きな人々の総称?)歓喜の論かも。また、本文中で韓国のアニメ研究の文献がいくつか参照されていて、パク・ギュテ『アニメーションから見る日本』(サルリム社, 2005)など気になるタイトルもあった。

トーマス・ラマール「フル・リミテッドアニメーション」

昨年、出版された『アニメ・マシーン』の第十五章を加筆・修正して翻訳掲載したもの。本書から一章を取り出して翻訳するとすればこの章しか考えられない、というところを訳出してくれている。大雑把に言うと『アニメ・マシーン』は第一部を宮崎アニメ、第二部をガイナックスのアニメ、第三章を萌えアニメの分析に充てており、この第十五章は第二部の最終章ということになる。

中身はディズニー的なフルアニメではなくて、日本的なリミテッド・アニメをイメージの分析を通して再評価しようというもの。それゆえ、フルアニメ=運動=ディズニー的な完成度、リミテッドアニメ=静止=劣化版という従来の評価軸を一端放棄することから始まる。これに代わって、ドゥルーズ『シネマ』の運動イメージ/時間イメージの概念を援用することで、フルアニメ=古典的な運動イメージ/リミテッド・アニメ=現代的な時間イメージという観点から、後者の潜在的な可能性を開こうと試みる。つまり、いわゆる「アニメーションの快楽」の追及を戦略的に断念して、各イメージ/レイヤー間の「隔たり」や内部分裂、さらにはリズム構成やメディアミックスにイメージの未来を模索しようということ。ドゥルーズにならいラマールもまた、それを断絶ではなく「進化」だと言う。

「リミテッドアニメは、古典的なフルアニメに具現された動くイメージの力における「進化的な」変異を伴い、この変異こそが、アニメーションに描かれたイメージの潜勢力をさまざまな新たな可能性へと開放するのである」

その可能性の一つがキャラクターの使用法、つまりは「動かないこと」によって「魂が憑依する身体」を獲得し、キャラの内部から「携帯可能な生命力」が呼び出される可能性である。その結果、単一のイメージ空間に埋め込まれることないキャラクターの成立よってフレームを超えた横断的なメディアミックス展開が可能となるという(本文中では言及されていないが、伊藤剛の言う「キャラ」に近いかも)。例証として貞本義之のキャラデザ、特に綾波レイが検討される。また、ラマールはこの「動かなさ」とドゥルーズが言う「行動イメージの危機」を関連付けて、碇シンジのような非行動型の主人公の氾濫とリミテッド・アニメ的な時間イメージの発展を重ねている。限定されたイメージの中に最大限の潜勢力を、「時間イメージ」としてのキャラクターに複数のプラットフォームを横断する幽霊を見る――タイトルにある「フル・リミテッドアニメーション」の意味するところはそんなところだろう。

訳者がドゥルーズ研究者だということもあって翻訳もけっこう読みやすい。是非このまま『アニメ・マシーン』を完訳して欲しい。前半のマーク・スタインバーグの議論の前提となる議論も含まれているので必読。

The Anime Machine: A Media Theory of Animation

The Anime Machine: A Media Theory of Animation

上野俊哉「アニメ的オートマトン――息を吹き込まれた自動機械/人形としてのアニメ」

トリッキーな押井守論。言語学者宗教学者井筒俊彦が論じた東洋思想で押井守作品を見る、あるいはその逆とでも言うべきか。もしくは、東アジアの巨視的な文明史・思想史の中で、アニメの映像を見るという魔術的な体験を分析する試みとでも言えるかもしれない。押井作品とシャーマニズム、複数の次元が混在するアニメの映像を見るという体験と中国哲学における「魂魄」(こんぱく)のズレ、アニメという無意識の倉庫と「阿頼耶識」(あらやしき)、アニメにおける意味生成と「薫習」(くんじゅう)という概念、そしてアニメと「精神的自動機械」(ドゥルーズ)――こうした聞きなれない諸々の概念についてはその都度説明がされてはいるものの、全体的に論述が錯綜・脱線を繰り返していて、それはまるで押井守的な映像世界を模倣、あるいは井筒的なノンリニアな無時間姓を模倣しているかのようでもあり、決して読みやすい文章ではない。ここから思考の種子を収穫できるかは読者次第といったところ。 論稿タイトルに関しても、こんな調子。

そこ[意識のゼロ・ポイント]において現在、過去、未来が並行し、共存しあうような時間姓をアニメ/映画は創造する。アニメの作家は人形使いと似たはたらきを引き受けているのである。映画とともに、アニメ/映画もまた「自動機械/自動人形」(オートマトン)なのだった。この自動機械は、潜在的な意味の種子からこの現実への結晶化をうながしながら、同時に固定した(分節化された)意味の結晶を叩き割ることもする。(231頁)

映画が思考の外に向かって思考させる自動機械であるなら、アニメ/映画は思考の無意識を目に見えるようにする自動機械/人形にほかならない。(234頁)

神山健治 × 上野俊哉「対談 この世界を終わらせないために」

以下、気になる点を抜粋して箇条書き・・・しようと思ったが、正直あまり中身のある対談ではなかった。

  • 東のエデン』の主人公・滝沢は映画をリリーサーとして記憶を蘇らせている。シネフィルとオタクの壁。(上野)
  • 「滝沢という男はどちらの世代にも属している、中途半端な立ち位置、期せずして僕自身。」(神山)
  • ミニパト』第三話は押井守を100%コピーしたつもりが、期せずしてオリジナルになってしまった(神山)
  • ゼロ年代後半は的のないところにダーツの矢を投げている状況」(神山) -・・・と、後半は主に中年男性の説教と愚痴。『東のエデン』の話題大杉。意識的なのか無意識的なのかはさておき、あらゆる話題が「若者は〜」とか「世代は〜」の話になりつつある。そもそも、『東のエデン』があんな惨状になったのはこの世代感覚が原因ではと何度(ry