『菊とポケモン』

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

Millennial Monsters (Asia: Local Studies / Global Themes)

Millennial Monsters (Asia: Local Studies / Global Themes)

  • 作者: Anne Allison
  • 出版社/メーカー: University of California Press
  • 発売日: 2006/06/30
  • メディア: ペーパーバック
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アン・アリスン(Anne Alison)のMillennnial Monsters: Japanese Toys and the Global Imaginationが『菊とポケモン――グローバル化する日本の文化力』として翻訳された。著者はデューク大学の教授で専門は文化人類学。本著の他にも東京のホステスクラブを分析した単著Nightworkや、現代日本セクシュアリティと検閲の問題を扱ったPermitted and Prohibited Desiresなどの業績がある。

凡例ページに記述された言葉を借りるならば、本書『菊とポケモン』はアメリカにおける「クールジャパンの誕生と歴史」を分析した研究であると要約することができる。各章で扱われているコンテンツは、ゴジラパワーレンジャーセーラームーン、たまごっち、ポケットモンスターと多岐に及ぶが、いずれも20世紀後半の日本産ポップカルチャーグローバル化を代表するものばかりである。筆者は日本的想像力によって生み出されたこうしたコンテンツがいかに資本主義やグローバリゼーションと共犯関係を結び、その独自のファンタジー世界とキャラクターによってファン層と市場を拡大させていったのかをフィールドワークによって丁寧に分析している。

しかし、本書が単なるアメリカからの視点で書かれた「クール・ジャパン」解説本ではなく、アカデミックな文化人類学研究として執筆された日本文化論であるという点を無視することはできないだろう。著者独自のコンセプトとして提案されるのが、日本産コンテンツが有する「テクノ・アニミズム」と「多形倒錯」(後者はフロイトの用語からの流用)。「テクノ・アニミズム」とは「テクノロジーがあらゆる類の生命活動を組み立てるための鍵となっている」日本において、「ファンタジー世界にもう一回魔法をかけて、日常生活をより魅力的にする」ための日本独特の美学であり、かつ消費者資本主義を再生産するためのシステムである。「多形倒錯」という語は、おそらくその性的な連想を回避するために「多形変様」と訳出されているが、日本産コンテンツが持つアイデンティティー変容や変身、さらには文化の流動性・携帯性などを象徴する言葉として用いられている。

本書の根底にあるのは、アメリカにおける従来のメジャーな文化(ディズニー、ハリウッド、アメコミ)とは異質なファンタジー世界が20世紀末に日本から集中的に到来し、旧来の想像力や物語性を脱中心化するオルタナティブとして機能してしまったことに対する驚きの感覚である。著者はアルジュン・アパデュライやフレデリック・ジェイムソンらの理論を援用しながら、一連のコンテンツにポストモダニズム/グローバリゼーション/後期資本主義時代のいくつかの神話を読み解いていく。例えば、『パワーレンジャー』はポストフォーディズム体制を代表し、スキゾフレニア的な分裂生活を送る新しいヒーロー像が提示された作品であり、『セーラームーン』は美少女ヒーローの変身というアイデンティティ変容とジェンダー規範の撹乱を描いた作品であるとされる。最も紙幅が割かれている『ポケットモンスター』もまた、携帯ゲーム機を利用した新しい収集/贈与/コミュニケーション体系の例として挙げられ、キャラクターの「かわいい」帝国の拡大、さらには世界の「ポケモニゼーション化」とでも言うべき事態が進行していると指摘されている。また、こうしたコンテンツに共通する特徴として、各キャラクターのアイデンティティが標準化・固着化されず絶えず流動的で分裂していること、技術を媒介にした「親密なバーチャリティ」が形成されノマド化した個人の受け皿となっていること、独立のファンタジー世界そのもに中毒性が宿ることなどが挙げられている。

ちなみに、原著タイトルになっている「ミレニアル・モンスター」(千年紀の怪物)とは一義的にはセーラームーン、たまごっち、ピカチュウなど各作品に登場するキャラクターたちを指す言葉である。かわいさと異形の「不気味さ」を併せ持つ異質なキャラクターたちはまさしく「モンスター」と呼ぶにふさわしい。しかし、第三章「新世紀の日本」の中で明らかにされているように、筆者がこの「モンスター」の概念の適用範囲を拡大していることにも注目したい。そこでは絶望感を抱いた少年犯罪者や社会不適合者扱いされる「引きこもり」、さらには日常生活における疎外感を機械やファンタジーという「装着物」によって補っている人々(つまりは我々一般人?)もまた「モンスター」の一種だとされている。

実際、書かれている内容は現在の日本の読者から見ると若干古びている(なつかしい?)気もしないでもない。その「古さ」の理由はもちろん扱わているコンテンツ自体のノスタルジックなまでの「古さ」なのだが、と同時にコンテンツの拡散がほぼ公式ルートのみが前提とされているという点も挙げられる。当然、コンテンツの年代の制約もあるが、インターネット以後の動向や非公式トラックでの流通などは視野に収められておらず、あくまで公式の産業として流通した=メジャー化し得たコンテンツが分析の対象となっている。フレキシビリティ、ポータビリティ、モビリティ、アイデンティティ変容、脱中心化・脱領域化などグローバリゼーションの名の元でバズワード化した単語が並べられている箇所が目立つが、それらのいくつかはネット以後でその意味が大きく変わってしまったような気もする。おそらくポケモン以降、「モンスター」が宿る場所や、それらが進化・侵攻する経路すらも変容し続けているのだろうから。


タイトルについても一言。ルース・ベネディクトの『菊と刀』をパロった『菊とポケモン』というタイトルはお世辞にも良いとは言えず、筆者による巻末の「日本語版刊行によせて」では苦言が呈されている。『菊と刀』そのものが実証性に欠けた国策的な書物であったことは海外の日本学研究者はみな知っているし、現在でもあのような形の「日本特殊論」に対する警戒感は根強く残っている。日本版副題も「日本の文化力」というナショナルな力を強調するものになっているが、アリソンの原著は「グローバル化」に全体的な力点を置くものであり、その一つの徴候として日本のキャラクター文化を位置づけるといった体裁になっている。