視覚文化 × ダーウィン

ダーウィンの珊瑚 (叢書・ウニベルシタス)

ダーウィンの珊瑚 (叢書・ウニベルシタス)

Darwins Korallen: Die fruehen Evolutionsdiagramme und die Tradition der Naturgeschichte

Darwins Korallen: Die fruehen Evolutionsdiagramme und die Tradition der Naturgeschichte

ダーウィン進化論の図像モデルが系統樹ではなく珊瑚だったという説。確かに口絵に掲載された手稿のスケッチは、根から上方へと向かう樹木というよりはむしろ、無秩序に拡散する珊瑚あるいはリゾーム(あるいはネットワークモデル)に見える。「つながり」の方法が明らかに異なっている。
珊瑚モデルを系統樹モデルから決別させるもう一つの特徴は、点線の使用法だろう。系統樹は直線を中心にした線形のモデルである。しかし、初期のダーウィンは珊瑚のデコボコ状のフォルムにならって進化の断層を点線によって表現した。点線の思考から直線の思考への転換――それはおそらくダーウィンがアルフレッド・ウォレスの自然進化モデルに先手を打つために採用せざるをえなかった手段であり、博物学的な珍奇物蒐集者の美学が西洋の図像の伝統に合併された瞬間でもあったのだろう。

訳者あとがきには2005年の原著出版以後の研究動向が手短にまとめられている。
ブレーデカンプの説に批判的な視座を含むユリア・フォスのイメージ研究が2007年に出版されている。

Darwins Bilder: Ansichten der Evolutionstheorie 1837-1874

Darwins Bilder: Ansichten der Evolutionstheorie 1837-1874


2009年にはジョナサン・スミスの研究が出版され、「無限の形」という展覧会も開催された。

Charles Darwin and Victorian Visual Culture (Cambridge Studies in Nineteenth-Century Literature and Culture)

Charles Darwin and Victorian Visual Culture (Cambridge Studies in Nineteenth-Century Literature and Culture)

Endless Forms: Charles Darwin, Natural Science, and the Visual Arts

Endless Forms: Charles Darwin, Natural Science, and the Visual Arts

2010年10選

モナドの窓

モナドの窓

ダーウィンの珊瑚 (叢書・ウニベルシタス)

ダーウィンの珊瑚 (叢書・ウニベルシタス)

思想地図β vol.1

思想地図β vol.1

神話が考える ネットワーク社会の文化論

神話が考える ネットワーク社会の文化論

正義論

正義論

自我の源泉―近代的アイデンティティの形成―

自我の源泉―近代的アイデンティティの形成―

写真のアルケオロジー (視覚文化叢書)

写真のアルケオロジー (視覚文化叢書)

ゴダール的方法

ゴダール的方法

日本中世社会の形成と王権

日本中世社会の形成と王権

記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

『プルーストの記憶、セザンヌの眼』

プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たち

プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たち

Proust Was a Neuroscientist

Proust Was a Neuroscientist

2007年は人文・社会科学の「神経美学的転回」にとって大きな節目の一つとなった年だったのかもしれない。一方でバーバラ・スタフォードの新刊『エコー・オブジェクツ』(Echo Objects)が出版され、イメージ研究の大家がついに神経の領域へと本腰を入れ始めたことが注目を浴びた。他方では、サイエンス系のライターであるジョナ・レーラーが『プルースト神経科学者だった』(Proust was a Neuroscientist)を上梓し、同書はたちまちベストセラー入りを果たしている。前者が視覚文化研究の最先端の成果を示す学術書だとすれば、後者は「神経科学で学ぶモダニズム芸術」とでも言うべきポピュラーサイエンス的な要素を含んだ一般向けの「読み物」である。

これら二つの著書は対象とする読者は異なるものの、同じ方向を向いている一つの流れを体現していると言うべきだろう。それは一つには、かつて「学際/インターディシプリナリー」としてもてはやされた学術的な異分野連携の成果。もう一つとしては、脳神経科学の圧倒的な影響力が既存の認知モデルや意識モデルを大幅にアップデートした結果、旧来の「芸術家」や「イメージ」の概念そのものが「地殻/知覚変動」とでも言うべきパラダイム・チェンジに曝されていることだ。

そして2010年、レーラーの『プルースト神経科学者だった』が『プルーストの記憶、セザンヌの眼』として邦訳された。扱われている雑多なトピックを拾ってみると、「ウォルト・ホイットマン×感情&身体性」、「ジョージ・エリオット×生物学&進化論」、「オーギュスト・エスコフィエ×味覚」、「マルセル・プルースト×記憶」、「ポール・セザンヌ×視覚」、「イーゴリ・ストラヴィンスキー×聴覚」、「ガートルード・スタイン×言語」、「ヴァージニア・ウルフ×意識」――このとおり、19〜20世紀初頭に活躍した芸術家の作品に神経科学的な知見の先取りを認める大胆な仮説が提起されている。

例えば、本のタイトルにも冠されているプルーストの章では、『失われた時を求めて』冒頭の有名なマドレーヌの場面が「嗅覚および味覚と記憶の解剖学的構造」の発見を予見したものであるとされ、また小説におけるプルーストの時間操作に「記憶の再固定」の発見が予見されていると指摘される。プルーストが脳神経の機能について「知っていた」という実証性があるわけでは決してないが、脳神経科学の知見によって芸術が別種の領域へと開かれる可能性に筆者は賭けている。それがどこまで成功しているのかは判断を保留せざるを得ないものの、少なくともポピュラーサイエンスの「読み物」としては及第点に値する内容だろう。

『生きるための自由論』

生きるための自由論 (河出ブックス)

生きるための自由論 (河出ブックス)

大澤真幸氏が2010年10月に上梓した単著は二冊を数える(『THINKING「O」』も含めると三冊)。一方の『量子の社会哲学』を「科学史/社会哲学 meets 量子力学」と呼ぶならば、他方の『生きるための自由論』は「政治哲学 meets 脳科学」とでも呼ぶべき内容を含んでいる。全体的に見ると、本書は二本の論文「〈自由〉の所在」、「連帯の原理としてのリベラリズム」と、補筆パート「一つの壁から無数の壁へ」によって構成されており、2008年に出版された『〈自由〉の条件』の後継書とでも言うべきものだ。

二つの論文に共通するのは、脳科学が提起する「心脳問題」やリベラル・ナショナリズム憲法パトリオティズムといった社会構想上の諸理念のあとで、いかにして「他者の審級」を回復しつつ「自由」の圏域を確保するかという課題である。筆者が定義する「自由」とは、いわゆる「第三者の審級=超越的な他者」との関係の中で、または「第三者の審級が撤退した後の身近な隣人=他者」との関係(連帯)の中で生まれるものだ。

一本目の「〈自由〉の所在」は、ベンジャミン・リベットに代表される脳科学の成果を批判的に検討することによって、自由(意志)を社会としての脳と、脳の外部の〈外的社会性〉に見出す。二本目の「連帯の原理としてのリベラリズムは、国民―国家を基盤とするリベラリズムではなく、自らの文化への否定性=アイデンティティへの違和=「私≠私の公理」を徹底した真に普遍的なリベラリズムによる連帯を模索する。「付」パート「一つの壁から無数の壁へ」は、ベルリンの壁の崩壊以後に生じた無数の壁≒クラスタ島宇宙の乱立と崩壊をたどる内容であり、その行方はサブプライムローン金融工学に隠された「壁」へとたどり着く。

また、今月(2010年11月)には新たな単著『現代宗教意識論』が上梓予定とのこと。

「科学革命」という二つ孔――『量子の社会哲学』

量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う

量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う

歴史家ハーバート・バターフィールドが17世紀ヨーロッパで生じた科学的な変革を「科学革命」と命名してからすでに60年以上が過ぎた。現在では、「産業革命」と同様に、この「科学革命」という概念もまた批判的に検証される傾向があるものの、それが一つの認識論的なパラダイムを切り取る上で有効であったことは疑うべくもない。しかし、現代の歴史学にあって「○○革命」や「○○主義」というアクロバティックなハッタリをかますことは、もはや不可能と言っても過言ではないだろう。それは学術界隈を離れたよっぽどの変人か異端者ぐらいにしかできない試みと言ってもいいかもしれないが、それゆえにこそ学術的な実証性からは距離を置いた超弩級のハッタリが希求されるという逆説も生じる。

大澤真幸氏の新刊『量子の社会哲学』は、「アインシュタインによる相対性理論の定式化から量子力学の成立へと至る」20世紀初頭の言説空間の変革に「第二の科学革命」の展開を見るものである。筆者は二つの科学革命に象徴される「知のステータスの転換」を、「超越的な他者」「否定神学」「第三者の審級」など大澤の著作に親しんでいる読者にとってはお馴染みの概念を用いながら多角的に検討していく。その結果、(様々な論理的跳躍は端折ると)ピカソらによるキュビズムは美術における量子力学の相関物とみなされ、シュミットの「例外状態」が量子力学的な波動の対応物であるとされ、フロイトの「モーセ一神教」にも量子力学と同じ精神が見出され、ベンヤミンの「神的暴力」や「歴史」認識の時間性に量子力学との類似が認められ、レーニンにとっての党や「プロレタリア独裁」が量子力学を媒介にして分析され、粒子/波動の二重性とマクタガードの時間論との共通点が暴かれる。特に実証的な史料の提示もないまま、同時代に起こったいくつかの現象から相同性や類似性を抽出する筆者の手並みは曲芸的な刺激に溢れている。

本書を読んでいると、量子力学というモデル(フィクション?)の万能感に率直な驚きすら覚えるが、それも理由のないことではないだろう。量子力学の観測者は、スラヴォイ・ジジェクや大澤が得意とする「気づいていないという事実に気づいている主体」、または「自分が騙されていることに気づいていない者を眺める主体」といった全知と無知の諸関係を定式化するための極めて示唆的な位置を占めている*1。また、量子力学と、その代表的な実験モデル「二つ孔の実験」(いわゆる二重スリット実験)が教える偶有的な世界観や時間概念は「不確定性」や「不可能性」をテーゼとする思考の枠組みと親和性が高い。何より量子力学の「観測者」という概念自体が視覚の優位に依拠しつつもその不可能性を暴露しているため、映画などの映像表現を用いた分析への応用可能性は計り知れない*2

第三部以降はほぼ同じ枠組みを使った同時代的な分析が中心になるため、個人的には第一部「科学革命以前」と第二部「最初の科学革命」に啓発される箇所が多かったように思う。副題の「革命は過去を救うと猫が言う」が示唆しているように、著者は二つ目の「科学革命」をセットすることで、一つ目の「科学革命」(=過去)の認識すらも変えてしまう可能性を残している。その時、遠近法や風景画、あるいは光学や「聖俗革命」といった(初期)近代におけるいくつかの重要な要素が、未来からの眼差しによってその姿を変えていく。これは「量子的な科学史」が実現させた別種の「二つ孔(=革命)の実験」とでも呼ばれるべき試みだろう。

ちなみに本書の「量子的な」相関物としてマーティン・ジェイのDowncast Eyes(未邦訳)が挙げられるかもしれない。ジェイの書に「量子力学」の言葉は一箇所しか登場しないが、かつて「五感の中心」とみなされた特権的な感覚である「視覚」が凋落していく軌跡をたどった本書の記述は『量子の社会哲学』と並行して読むことができるものだ。

Downcast Eyes: The Denigration of Vision in Twentieth-Century French Thought (Centennial Book)

Downcast Eyes: The Denigration of Vision in Twentieth-Century French Thought (Centennial Book)

*1:そもそもジジェクは90年代の著作から量子力学の比喩をしばしば用いてきた。その最初期の文献としてFutureNatural所収の“Lacan with quantum physics”などを挙げることができる。

*2:また、一部で指摘されていたのを目にしたが、これが新しい「知の欺瞞」なのかどうかは判断がつかない。かつて「フラクタル」や「カオス」など「理系的」な用語がもてはやされた時期があったが、「量子力学」もまたそれらの代替物であるという可能性は確かに否定できないのだろう。

『菊とポケモン』

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力

Millennial Monsters (Asia: Local Studies / Global Themes)

Millennial Monsters (Asia: Local Studies / Global Themes)

  • 作者: Anne Allison
  • 出版社/メーカー: University of California Press
  • 発売日: 2006/06/30
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アン・アリスン(Anne Alison)のMillennnial Monsters: Japanese Toys and the Global Imaginationが『菊とポケモン――グローバル化する日本の文化力』として翻訳された。著者はデューク大学の教授で専門は文化人類学。本著の他にも東京のホステスクラブを分析した単著Nightworkや、現代日本セクシュアリティと検閲の問題を扱ったPermitted and Prohibited Desiresなどの業績がある。

凡例ページに記述された言葉を借りるならば、本書『菊とポケモン』はアメリカにおける「クールジャパンの誕生と歴史」を分析した研究であると要約することができる。各章で扱われているコンテンツは、ゴジラパワーレンジャーセーラームーン、たまごっち、ポケットモンスターと多岐に及ぶが、いずれも20世紀後半の日本産ポップカルチャーグローバル化を代表するものばかりである。筆者は日本的想像力によって生み出されたこうしたコンテンツがいかに資本主義やグローバリゼーションと共犯関係を結び、その独自のファンタジー世界とキャラクターによってファン層と市場を拡大させていったのかをフィールドワークによって丁寧に分析している。

しかし、本書が単なるアメリカからの視点で書かれた「クール・ジャパン」解説本ではなく、アカデミックな文化人類学研究として執筆された日本文化論であるという点を無視することはできないだろう。著者独自のコンセプトとして提案されるのが、日本産コンテンツが有する「テクノ・アニミズム」と「多形倒錯」(後者はフロイトの用語からの流用)。「テクノ・アニミズム」とは「テクノロジーがあらゆる類の生命活動を組み立てるための鍵となっている」日本において、「ファンタジー世界にもう一回魔法をかけて、日常生活をより魅力的にする」ための日本独特の美学であり、かつ消費者資本主義を再生産するためのシステムである。「多形倒錯」という語は、おそらくその性的な連想を回避するために「多形変様」と訳出されているが、日本産コンテンツが持つアイデンティティー変容や変身、さらには文化の流動性・携帯性などを象徴する言葉として用いられている。

本書の根底にあるのは、アメリカにおける従来のメジャーな文化(ディズニー、ハリウッド、アメコミ)とは異質なファンタジー世界が20世紀末に日本から集中的に到来し、旧来の想像力や物語性を脱中心化するオルタナティブとして機能してしまったことに対する驚きの感覚である。著者はアルジュン・アパデュライやフレデリック・ジェイムソンらの理論を援用しながら、一連のコンテンツにポストモダニズム/グローバリゼーション/後期資本主義時代のいくつかの神話を読み解いていく。例えば、『パワーレンジャー』はポストフォーディズム体制を代表し、スキゾフレニア的な分裂生活を送る新しいヒーロー像が提示された作品であり、『セーラームーン』は美少女ヒーローの変身というアイデンティティ変容とジェンダー規範の撹乱を描いた作品であるとされる。最も紙幅が割かれている『ポケットモンスター』もまた、携帯ゲーム機を利用した新しい収集/贈与/コミュニケーション体系の例として挙げられ、キャラクターの「かわいい」帝国の拡大、さらには世界の「ポケモニゼーション化」とでも言うべき事態が進行していると指摘されている。また、こうしたコンテンツに共通する特徴として、各キャラクターのアイデンティティが標準化・固着化されず絶えず流動的で分裂していること、技術を媒介にした「親密なバーチャリティ」が形成されノマド化した個人の受け皿となっていること、独立のファンタジー世界そのもに中毒性が宿ることなどが挙げられている。

ちなみに、原著タイトルになっている「ミレニアル・モンスター」(千年紀の怪物)とは一義的にはセーラームーン、たまごっち、ピカチュウなど各作品に登場するキャラクターたちを指す言葉である。かわいさと異形の「不気味さ」を併せ持つ異質なキャラクターたちはまさしく「モンスター」と呼ぶにふさわしい。しかし、第三章「新世紀の日本」の中で明らかにされているように、筆者がこの「モンスター」の概念の適用範囲を拡大していることにも注目したい。そこでは絶望感を抱いた少年犯罪者や社会不適合者扱いされる「引きこもり」、さらには日常生活における疎外感を機械やファンタジーという「装着物」によって補っている人々(つまりは我々一般人?)もまた「モンスター」の一種だとされている。

実際、書かれている内容は現在の日本の読者から見ると若干古びている(なつかしい?)気もしないでもない。その「古さ」の理由はもちろん扱わているコンテンツ自体のノスタルジックなまでの「古さ」なのだが、と同時にコンテンツの拡散がほぼ公式ルートのみが前提とされているという点も挙げられる。当然、コンテンツの年代の制約もあるが、インターネット以後の動向や非公式トラックでの流通などは視野に収められておらず、あくまで公式の産業として流通した=メジャー化し得たコンテンツが分析の対象となっている。フレキシビリティ、ポータビリティ、モビリティ、アイデンティティ変容、脱中心化・脱領域化などグローバリゼーションの名の元でバズワード化した単語が並べられている箇所が目立つが、それらのいくつかはネット以後でその意味が大きく変わってしまったような気もする。おそらくポケモン以降、「モンスター」が宿る場所や、それらが進化・侵攻する経路すらも変容し続けているのだろうから。


タイトルについても一言。ルース・ベネディクトの『菊と刀』をパロった『菊とポケモン』というタイトルはお世辞にも良いとは言えず、筆者による巻末の「日本語版刊行によせて」では苦言が呈されている。『菊と刀』そのものが実証性に欠けた国策的な書物であったことは海外の日本学研究者はみな知っているし、現在でもあのような形の「日本特殊論」に対する警戒感は根強く残っている。日本版副題も「日本の文化力」というナショナルな力を強調するものになっているが、アリソンの原著は「グローバル化」に全体的な力点を置くものであり、その一つの徴候として日本のキャラクター文化を位置づけるといった体裁になっている。

『功利主義と分析哲学』

功利主義と分析哲学―経験論哲学入門 (放送大学教材)

功利主義と分析哲学―経験論哲学入門 (放送大学教材)

功利主義」(筆者の用語だと大福主義)と「分析哲学」の源流を「イギリス経験論」に遡る試み。この「経験論」とは感覚データによる印象・観念のみを意味するのではなく、より広く「努力し試みることの中において」という行為を重視した意味で捉えられなければならない。そこから一連の思想を貫く「計量化への志向性」が暴かれる。具体的にはロックから、バークリ、ヒューム、ベンサム、ミルを経由して、論理実証主義や現在の功利主義へ。

一つ大きな主題を挙げるとすれば「因果」(原因)だろうか。全体を眺めてみてもヒュームの因果論の影響が計り知れないことに気づかされる。