大英帝国関連の近著

The Empire Project: The Rise and Fall of the British World-System, 1830?1970

The Empire Project: The Rise and Fall of the British World-System, 1830?1970

Exclusionary Empire: English LIberty Overseas, 1600-1900

Exclusionary Empire: English LIberty Overseas, 1600-1900

The Web of Empire: English Cosmopolitans in an Age of Expansion, 1560-1660

The Web of Empire: English Cosmopolitans in an Age of Expansion, 1560-1660

The Geography of Empire in English Literature, 1580?1745

The Geography of Empire in English Literature, 1580?1745

Settlers and Expatriates: Britons over the Seas (The Oxford History of the British Empire)

Settlers and Expatriates: Britons over the Seas (The Oxford History of the British Empire)

Migration and Empire (The Oxford History of the British Empire Companion Series)

Migration and Empire (The Oxford History of the British Empire Companion Series)

Gender and Empire (The Oxford History of the British Empire Companion)

Gender and Empire (The Oxford History of the British Empire Companion)

イギリス帝国と帝国主義

イギリス帝国と帝国主義

脱植民地化とイギリス帝国 (イギリス帝国と20世紀)

脱植民地化とイギリス帝国 (イギリス帝国と20世紀)

イギリス帝国からヨーロッパ統合へ―戦後イギリス対外政策の転換とEEC加盟申請―

イギリス帝国からヨーロッパ統合へ―戦後イギリス対外政策の転換とEEC加盟申請―

帝国の長い影―20世紀国際秩序の変容 (MINERVA西洋史ライブラリー)

帝国の長い影―20世紀国際秩序の変容 (MINERVA西洋史ライブラリー)

『アフロディズニー2』

アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界

アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界

予想に反して、意外とアニメ関連の話題が多かった。黒瀬陽平講義回でのニコ動&アニメOP・ED分析にはじまり、細馬宏通回は「動作研究・音・アニメーション」の接点としてテックス・エイブリー作品を分析、高村是州回はキャラクターの歴史とファッションのモードの変遷を結び合わせる試み。

また、主催者が菊地成孔×大谷能生のコンビだけあって、音(聴覚)に関する話題が盛り上がっていた。アニソンと映像について(黒瀬陽平回)、エイゼンシュテインの下方倍音と「映像は静止できても音は静止できない」件(伊東俊治回)、視覚と聴覚それぞれの統合について(斎藤環回)など。

『劇場版マクロスF』

劇場版マクロスF?イツワリノウタヒメ? [DVD]

劇場版マクロスF?イツワリノウタヒメ? [DVD]

歌姫ライブの舞台が秀逸だった。冒頭が時計仕掛けのロボット仕様で、機械の身体と生身の身体を対比させるような映像。最後が海に浮かぶ帆船で、テーマ的にもmothershipかつ「フロンティア」開拓のための船(女性名が定番)を想起させる仕様になっていた。

テレビ版の『マクロスF』は時間軸=曲順で記憶に残っているので、劇場版で微妙に曲順入れ替えがあると少し混乱する事実は否めない。「射手座午後9時」が後方へ、「ライオン」が「星間飛行」の前にetc. 新しいアルバムを聴いたら、トラックリストが大幅に入れ替わってたような感覚。しかし、それも心地良い。

それにしても夜景が綺麗だった。宇宙を背景にすれば全ての人工光は夜景に変わるのだから、宇宙景とでも言うべきか。

グランド・ツアー再訪2010

「グランド・ツアー」とは、18世紀英国の上流階級の子弟たちが大学卒業から就学の間に通過儀礼として体験したヨーロッパ大陸への修学旅行のことを指す。その目的はヨーロッパの文化や芸術を体験することで貴族/紳士としての礼儀作法を身につけること、語学力の向上、人脈上のコネづくり、本国を離れての放蕩(?)など多岐に及ぶ。

18世紀に出版されたグランド・ツアーのガイドブックの中で最も著名なものは、トマス・ニュージェント(Thomas Nugent)によって執筆された『グランド・ツアー』(1749年)。また、文学者だとジェームズ・ボズウェル(James Boswell)のBoswell on the Grand Tourシリーズが有名。


グランド・ツアー―英国貴族の放蕩修学旅行 (中公文庫)

グランド・ツアー―英国貴族の放蕩修学旅行 (中公文庫)

グランド・ツアーについての本邦初の解説書は本城靖久氏の『グランド・ツアー:英国貴族の放蕩修学旅行』。第一章の「準備、そして出発」から第二章のパリ、第三章の南フランス、第四章のイタリア、第五章の帰国後にいたるまで、本書全体が実際の旅行行程をたどるガイドブックとして書かれている。


十八〜十九世紀英国におけるツーリズム文化をグランド・ツアー、ピクチャレスク・ツアー、ペデストリアン・ツアー(徒歩旅行)、都市放浪の順に紹介していく。詳細はコチラ


グランドツアー――18世紀イタリアへの旅 (岩波新書)

グランドツアー――18世紀イタリアへの旅 (岩波新書)

また最近、岡田温司氏による『グランド・ツアー:18世紀イタリアへの旅』が岩波新書にて出版された。先行する著作との大きな違いは、本書が「ヨーロッパ各国の旅行者たちを迎え入れたイタリアの側から書かれている」という点。

第一章「人」はイタリア人表象のイメージ、現地のサロンという文芸的公共圏、そこで活躍した人々(特に女性画家や女流作家)、「チチスベイ」や「カストラート」といったイタリア的キャラクター、最後にヴェネツィアスペクタクル社会を丁寧に描き出す。

第ニ章「自然」。ピクチャレスクや崇高といった定番の解説よりも、「記憶喪失」の風景、「健忘症の風景画」が興味深い。過去の神話=記憶にアクセスすることのない風景は写真に近い印象。言わば建築物版の静物画。火山観察スケッチに見られる「科学的なまなざし」ついての考察は、桑島秀樹『崇高の美学』で検証されていた「地質学的崇高」とリンクしている(巻末の参考文献にも同著が挙げられている)。

第三章「遺跡」の見所は、ギリシアVS.ローマを賭けたヴィンケルマンVS.ピラネージの論争。純粋単色のはずのギリシア建築が実は多彩色だったのでは、という問いは興味深い。

第四章「美術」はローマとイタリアを中心としたイタリア美術史とグランドツアーの接点をさぐる。肖像画家バトーニ、パンニーニの「ヴェドゥータ」、カナレットのヴェネツィア画、ピアツェッタの仕事が国境を超えて評価された背景に文芸的公共圏の人的交流があった。

『半透明の美学』

半透明の美学

半透明の美学

岡田温司氏は今月だけで岩波書店から二冊の本を出版されている。一つ目が本書『半透明の美学』で、二つ目が岩波新書の『グランドツアー』。

本書の核となる構想は意外にも単純だとすら思える。1) 「透明」と「不透明」の二項対立を脱構築する「半透明の美学」を考察すること(さらにはロザリンド・クラウスらが指摘する「フォルム」と「アンフォルム」の図式を再考)。2) 影、鏡、痕跡といった実体なき「半透明さ」に絵画的なものの起源を見出すこと、そして3) ジョナサン・クレーリーが『観察者の系譜』で指摘した「カメラ・オブスキュラ」の視覚モデルを相対化すること。

1) に関しては、「透明」の代表に幾何学遠近法を支配的な視覚の様態とみなすルネサンスの美学を、「不透明」の代表に表象の不透明性や物質の不透明性に力点を置くモダニズムの美学を対置することで、両者のあいだの媒介項として「半透明」の美学への道を模索する。アンフォルムに関してはやや複雑だが、岡田はラカンのヴェール概念を援用することによって、クラウスらが提唱した「フォルム/アンドルム」の図式が単純化の結果であることを批判する。2) に関しては、影、鏡、痕跡のいずれもが、あの世とこの世、リアルとヴァーチャル、聖と俗のあいだを媒介するものだという発想を展開したもの。3) に関しては、クレーリーの視覚モデルを批判するというよりはむしろ、支配的にはなり得なかった視覚モデルとして別種の「不透明な」知覚の様態が存在していたという可能性を検証しようとする。

かつて脱構築が流行していたころに定番だった「あいだの思考」とは大きく異なり、本書はその数歩先へと歩みを進めていると言えるだろう。第2章では、アリストテレスの「ディアファネース」という概念を手がかりに「半透明の感性学」の哲学的起源が暴かれる。ディアファネースという不思議なヴェール/媒介物はエーテル的な中間存在とでも言うべきもので、人間の眼に対象が「見えることを可能にする」機能を持つという。第3章はイコノグラフィーで、「灰色、埃、ヴェール」に焦点を合わせて主に西洋美術の「不透明」さの表象がたどられる。リヒターの灰色、パウル・クレーの灰色、フランシス・ベーコンの灰色、ヴェールとしての埃や雲の美学などなど話題は多岐に及ぶ。

第4章「半透明の星座」もまた、半透明をフックにした思想の星座的布置を構築しようと模索する内容で、メルロ・ポンティの「肉」、ドゥルーズの「クリスタル=イメージ」、ジャケレヴィッチの「何だかわからないもの」、デュシャンの「極薄」などが独自の「半透明座」を形成する。最終的に「何だかわからない」非―知、非―場の領域に着地するのは余りにも安全な振る舞いに見えなくもない。それでも「何だかわからない」経験を切り捨てることなく他との連関を意識して布置する試みは見事と言う他ない。

疑問点をメモしておくと、クレーリーの視覚モデルを相対化することを宣言しつつも、身体の生理的視覚の機能に余りにも無自覚すぎるのではないかと感じた。クレーリーの主張によれば、19世紀半ば以降の視覚はその生理的/身体的な次元を抜きに考えられず、人間の眼という一種のレンズそのものが「つねに・すでに」半透明だったという地点から分析される必要がある。眼の身体的な半透明性、そして半透明のディアファネース的な対象という二重のフィルタリングが作用している可能性はないのだろうか。第3章の灰色に関しても、知覚が「色」として認識してしまった場合、もはやそれは「半透明」とは言えないのではないだろうかと単純な疑問が浮かぶ。美学には疎いので的外れな疑問なのかもしれないが、とりあえず読書の痕跡として残しておく。

尚、本書の姉妹編として『絵画の根源へ――影・痕跡・鏡像』が近々上梓予定とのこと。

『チャンネルはいつもアニメ』

チャンネルはいつもアニメ―ゼロ年代アニメ時評

チャンネルはいつもアニメ―ゼロ年代アニメ時評

商業アニメ誌が主に情報誌とヴィジュアル誌(+おまけ商品)としての機能しか担わなくなって久しい。今や商業誌に関してアニメファンの間で話題に登るのは版権絵やグッズの話が中心で、アニメ時評などは映画誌以上に機能不全に陥っているとすら言える。そんな現状の中、著者の藤津亮太氏は2004年末から2010年5月まで『Newtype』と『アニメージュ』という大手アニメ誌で連載を続け、今回、その原稿が書籍化された。

「まえがき」で明らかにされている評論を書くにあたっての三つの原則は同意できる部分も多い。「作り手の名前に安易に頼って語らないこと」、「安易な辛口評を書かないこと」、「視聴者の視線から書くこと」。本文の原稿の質はまちまちだが、個人的には2008年前後に書かれた『true tears』、『紅』、『かんなぎ』などの時評は見事だと思う。

また、表紙は明らかにダサい。しかし、前時代的なリモコンにアニメチャンネルが並ぶその画像は、ネット配信へとシフトしていく時代の趨勢にあって「TVのザッピングに相当する不特定多数が偶然見るシステムの整備」が必要だと説く著者の意図を表現していることだけは確かだろう。

『ユリイカ』(2010. 09)

ユリイカ2010年9月号 特集=10年代の日本文化のゆくえ ポストゼロ年代のサバイバル

ユリイカ2010年9月号 特集=10年代の日本文化のゆくえ ポストゼロ年代のサバイバル

池田剛介氏の「マイクロマテリアルな環世界変容にむけて」が興味深かった。余談だが、「ある環世界から別の環世界へと移動する「変態(metamorphosis)」としての進化」は『借り暮らしのアリエッティ』を想起させる。あの映画が描こうとしていたミクロな知覚の映像世界――水の表面張力、昆虫のスケール感、ヒューマン・スケールの異化――とはまさに環世界変容と呼ぶにふさわしい。しかも、アリエッティというキャラクターもまたラス・メニーナスの絵画に描かれたように「小人」という設定だった。
また、ユクスキュルは『生物から見た世界』の中で子どもの知覚世界のことを「魔術的環世界」と呼んでいる。それは単なる無垢な視線ではなく、驚異を発見することができる魔術的な視線である。認知行為に「センス・オブ・ワンダー」が宿るような映像体験こそが10年代の文化を切り開くことになる可能性は大きい。