『半透明の美学』

半透明の美学

半透明の美学

岡田温司氏は今月だけで岩波書店から二冊の本を出版されている。一つ目が本書『半透明の美学』で、二つ目が岩波新書の『グランドツアー』。

本書の核となる構想は意外にも単純だとすら思える。1) 「透明」と「不透明」の二項対立を脱構築する「半透明の美学」を考察すること(さらにはロザリンド・クラウスらが指摘する「フォルム」と「アンフォルム」の図式を再考)。2) 影、鏡、痕跡といった実体なき「半透明さ」に絵画的なものの起源を見出すこと、そして3) ジョナサン・クレーリーが『観察者の系譜』で指摘した「カメラ・オブスキュラ」の視覚モデルを相対化すること。

1) に関しては、「透明」の代表に幾何学遠近法を支配的な視覚の様態とみなすルネサンスの美学を、「不透明」の代表に表象の不透明性や物質の不透明性に力点を置くモダニズムの美学を対置することで、両者のあいだの媒介項として「半透明」の美学への道を模索する。アンフォルムに関してはやや複雑だが、岡田はラカンのヴェール概念を援用することによって、クラウスらが提唱した「フォルム/アンドルム」の図式が単純化の結果であることを批判する。2) に関しては、影、鏡、痕跡のいずれもが、あの世とこの世、リアルとヴァーチャル、聖と俗のあいだを媒介するものだという発想を展開したもの。3) に関しては、クレーリーの視覚モデルを批判するというよりはむしろ、支配的にはなり得なかった視覚モデルとして別種の「不透明な」知覚の様態が存在していたという可能性を検証しようとする。

かつて脱構築が流行していたころに定番だった「あいだの思考」とは大きく異なり、本書はその数歩先へと歩みを進めていると言えるだろう。第2章では、アリストテレスの「ディアファネース」という概念を手がかりに「半透明の感性学」の哲学的起源が暴かれる。ディアファネースという不思議なヴェール/媒介物はエーテル的な中間存在とでも言うべきもので、人間の眼に対象が「見えることを可能にする」機能を持つという。第3章はイコノグラフィーで、「灰色、埃、ヴェール」に焦点を合わせて主に西洋美術の「不透明」さの表象がたどられる。リヒターの灰色、パウル・クレーの灰色、フランシス・ベーコンの灰色、ヴェールとしての埃や雲の美学などなど話題は多岐に及ぶ。

第4章「半透明の星座」もまた、半透明をフックにした思想の星座的布置を構築しようと模索する内容で、メルロ・ポンティの「肉」、ドゥルーズの「クリスタル=イメージ」、ジャケレヴィッチの「何だかわからないもの」、デュシャンの「極薄」などが独自の「半透明座」を形成する。最終的に「何だかわからない」非―知、非―場の領域に着地するのは余りにも安全な振る舞いに見えなくもない。それでも「何だかわからない」経験を切り捨てることなく他との連関を意識して布置する試みは見事と言う他ない。

疑問点をメモしておくと、クレーリーの視覚モデルを相対化することを宣言しつつも、身体の生理的視覚の機能に余りにも無自覚すぎるのではないかと感じた。クレーリーの主張によれば、19世紀半ば以降の視覚はその生理的/身体的な次元を抜きに考えられず、人間の眼という一種のレンズそのものが「つねに・すでに」半透明だったという地点から分析される必要がある。眼の身体的な半透明性、そして半透明のディアファネース的な対象という二重のフィルタリングが作用している可能性はないのだろうか。第3章の灰色に関しても、知覚が「色」として認識してしまった場合、もはやそれは「半透明」とは言えないのではないだろうかと単純な疑問が浮かぶ。美学には疎いので的外れな疑問なのかもしれないが、とりあえず読書の痕跡として残しておく。

尚、本書の姉妹編として『絵画の根源へ――影・痕跡・鏡像』が近々上梓予定とのこと。