歴史掘削メディアとして農耕詩

Georgic Modernity British Roman: Poetry and the Mediation of History (Cambridge Studies in Romanticism)

Georgic Modernity British Roman: Poetry and the Mediation of History (Cambridge Studies in Romanticism)

ヴァージル以来の農耕詩は単に農作業の実践形態やそれに伴う教訓を提示するだけのジャンルではなく、土地を「掘り返す」という行為を通して過去の歴史への通路を「開く/閉じる」メディアでもあった。ただしこのアーティファクトとしての農耕詩は歴史の隠蔽に最適化された媒体ではなく、その隙間から「不快なもの」が漏れ出てくるメディアでもある。一方にレイモンド・ウィリアムズ以後の歴史認識、及びロマン派研究にその手法を反映させたアラン・リウら新歴史主義の旗手の手さばき、他方にメディア研究やカルスタのフットワークを備えて、トムソン、クーパー、ワーズワスらの十八世紀英詩群を分析しようという試み。

第一章がメディアとしての農耕詩論。農耕詩の「農耕」の部分に歴史という土壌を読み込む必要性を示唆。第二章がトムソンの『四季』。風景パノラマというイデオロギーと顕微鏡的視覚がもたらすミクロな知覚の撹乱、そして「微視的視覚」(microscopic eye)を通して「名もなき国家」(nameless nations)や「見えない人々」(unseen people)が見えるという『四季』の中に帝国拡張に抵抗する不快なノイズを幻視する。三章はクーパーの『課題』。本来ならばこのテクストをドメスティック・イデオロギーもしくは「歴史からの逃走」の一例とみなすのがクーパー批評の定説らしいが、実はクーパーは「ニュースの農耕詩」をやっている。ひきこもり気味なテクストと外界のニュースには経路を発掘され、そこでクーパーはカオスなニュース記事を英詩に改変し直すことによって、会話成立可能なネーションを組み立てるという作業を行う。四章のワーズワス『逍遥』論は墓場と過去という喪の作業について。「英詩という強固なテクスチュアル・シールドをぶち破れ」というスローガンが暗に宣言されているなど、停滞感が漂う十八世紀英詩研究には良い刺激剤になること間違いない。