『ロマン主義と視覚性:断片、歴史、見世物』

Romanticism and Visuality: Fragments, History, Spectacle (Routledge Studies in Romanticism)

Romanticism and Visuality: Fragments, History, Spectacle (Routledge Studies in Romanticism)


Routledge Studies in Romanticismシリーズの十冊目。著者のソフィー・トマス博士はサセックス大学講師で新進のロマン派研究者。
ロマン主義と視覚文化」はここ数年、かなり刺激的な研究が相次いで発表されている分野だが、この著書もその一つ。第一章の序論は先行研究に丁寧に言及しながら著者独自の見解を示すもので、従来の「可視性」重視の研究から「断片」や「記憶」に焦点を当てた「不可視の認識論」へとパラダイム転換を図る。後半の、十八世紀末の「視」の様態としてピクチャレスクからパノラマへという流れは一見するとやや平凡だが、著者の関心は一貫してリアルな幻想の中に「不可視なるもの」が介入する瞬間にある。クロード・グラスと黒魔術の関係などは興味深い。

第二章からが本論。ロマン主義の「フラグメント」熱を?美的言説としての「廃墟」趣味や、?好古家にとっての断片化した過去やアンソロジーなどの視点から再考し、独イエナ派から英ロマン派の実例を紹介。ここからキーツの『ハイペリオン』シリーズへの分析に移り、従来のヴィジョン論との差異化に配慮しつつも、断片性と視覚性の接点を探る。

第三章は「廃墟における断片」。「廃墟」が歴史的な過去や記憶に根ざした概念だとすれば、「断片」は非歴史的であり、かつ「完成」という形で全体を指向するものでもある。著者としては後者を上位概念と捉え、豊富な図版と共に「断片」をロマン派にとっての歴史性やコレクションの思想と結び付ける。この流れだと蒐集家ジョン・ソーンの展示室が言及されるのは当然の流れ。後半はピーター・フリッチェの廃墟論やミュージアム論に乗っかる感じ。

第四章は表象としての古代/現代ローマの問題。ゲーテの『イタリア紀行』にしろ、シェリー夫妻にしろ、バイロンにしろ、現代の「見える」ローマから古代の「見えない」ローマをいかにして想起するかは切実な課題であったようで、これはターナーやサミュエル・パーマーなどの画家が古代/現代の二対のローマを描いた二重の視線にも通じている。

第五章はロマン派の観念論に真っ向から取り組む。「ヴィジュアル/ヴィジョナリー」、「マテリアル/イマジナリー」の諸相をワーズワスの『序曲』や『逍遥』、シェリーの「モンブラン」を参照しつつ分析し、「想像力」を統一性と断片性をつなぐ力(この意味でヴィジョナリーなるものと酷似する)と規定する。

第六章の「ジオラマ、分身、ゴシック」は2005年のRomantic Circlesに掲載された論文。パノラマの“representation”からジオラマの“illusion”へ、パノラマの“oneness”からジオラマの“doubleness”へ、パノラマの「空間性」からジオラマの「空間性」へ。後者にあるのは「死」であり、フォルト・ダーまがいの反復脅迫であり、それすなわちゴシック。

第七章はコールリッジとシラーの演劇。1794年にシラーの『群盗』を読んで感銘を受けたコルリッジは自らの劇作品『悔恨』の中で一つの視覚実験を実践していた。英国劇復興の必要を強く感じるコールリッジは劇的幻想をパフォーマンスとしてではなく、ある種の「読む」行為として舞台に載せようと試みたのではとのこと。いずれも未読で不明な点多し。

第八章は「ファンタスマゴリア論とメデューサ」。仏革後のマジック・ランタンの流行は多分に政治学がらみであって、その中で切断された首としてのメデューサはかなり効果的に用いられたらしい。そもそもフィリップスタールにしろロバートソンにしろファンタスマゴリアを魔術的な見世物というよりは、科学的かつ理性的な見世物として宣伝していたのだが、実はこの興行はヴィジョナリーな知覚や不可視なるものへの恐怖を語るには欠かせないもの。シェリーのエクフラシス詩、ワーズワスの洞窟体験、コルリッジの『文学自伝』の例はいずれもファンタスマゴリアで説明がつく。