近代英国の「顔出し」文化

Imagining the Gallery: The Social Body of British Romanticism

Imagining the Gallery: The Social Body of British Romanticism

タイトルからすぐに「ミュージアム政治学」系の本だと判断するのは早急だ。本書の要点は、文化帝国主義や簒奪ではなく、十八〜十九世紀の英国における「社会的な身体」の構築のために肖像画が果たした役割の分析にある。また、ギャラリーという概念は装置としての美術館やキャビネットだけを意味しているのではなく、肖像や図像が受容される様々な場を含む
十七世紀以前の国家=身体のメタファーがすでに効力を失いつつあった時代にあって、中産階級の発達と共に台頭してきたのが肖像画だった。中産階級にとって肖像画は「上位階級への可動性」(“upward mobility”)を担保するための重要な所有物であり、かつ肖像画を描いてもらう行為自体がパフォーマティヴな意味を持っていた。加えて、小説というジャンルも「社会的な身体」の各部を集めた一つのギャラリーとして読み解くことができる。さらには、ワーズワスが『リリカル・バラッド』を「田舎人たちのギャラリー」に例えていたことやエクフラシス詩の件など、「社会のギャラリー化」の諸相が抽出される。

一章がエドマンド・バークの『フランス革命省察』とジョシュア・レイノルズの『談話』を対話的に読み解くことで、主に政治の場における肖像画を論じる。二章がシェイクスピア・ギャラリーを中心に、歴史画と肖像画のハイブリッド化とともにナショナリズムが上書きされるシェイクスピア産業の一端を描き出す。三章がシャーロット・スミスによる「顔出し」の自己成型戦略。 四章が『フランケンシュタイン』で、この章が一番刺激的だった。『フランケンシュタイン』は、ヴィクター家の肖像画やポケットに入れられた細密画など、同時代の画像が階級意識と隣り合わせに埋め込まれた小説だった。筆者はそこに、エルギン・マーブルの公開が引き起こした「解剖学的美学」の言説を結びつけ、さらに選挙法改正云々と怪物の身体を並べる。 五章が晩年のワーズワスの自意識とエクフラシスについて。